ドラフト会議では毎年100人を超える選手が指名され、その一方で、100人を超えるプロ野球選手がグラウンドを去ることになります。しかも、自ら引退を決められる選手はごくわずかで、多くは戦力外通告を受けて現役引退し、新たな道へ進むことになります。かつてドラフト1位指名を受けた元プロ野球選手を取材し「ドラ1」ゆえの宿命、その後の人生を追いました。

平安高校のエースとして春夏連続で甲子園出場 ドラフト1位指名でオリックスに入団

京都市にある龍谷大平安高校。甲子園出場回数は全国最多の名門校です。ここにかつて4球団からドラフト1位指名された選手がいます。

「元オリックスの川口知哉です。1つの球団でドラフト1位でもやっぱりすごいことなのに、それを4つもいただいたっていうのは、ちょっと出来すぎかなって思う部分もありました」

川口知哉さん(44)。1997年に平安高校のエースとして春夏連続で甲子園に出場。140キロを超えるストレートと落差の大きいカーブを武器に、春ベスト8、夏準優勝を果たし、世代ナンバーワンと呼ばれました。

そして迎えたドラフト会議では、近鉄、オリックス、横浜、ヤクルト、この年の最多となる4球団から1位指名を受けオリックスに入団。仰木彬監督やイチロー選手と握手を交わし、鳴り物入りでプロの世界へ飛び込んだ、まさにゴールデンルーキーの順風満帆な野球人生。

(川口知哉さん)「自分が圧倒的に抑えられると思ってたんで、自分が負けない投球をしない限り、上回られないっていうのは思ってた」

入団も1軍での登板はたった9試合…プロ7年目の25歳で「戦力外通告」

しかし、川口さんを待ち受けていたのは、ケガ、そして制球難。高校時代の輝きは鳴りを潜め、1試合6暴投、1試合15個のフォアボールなど、不名誉な記録を打ち立ててしまいました。

(川口知哉さん)「キャンプが終わって、オープン戦のとき肩を痛めたんです。高校のときって、僕はあまりフォームを触られたり、アドバイスをもらうことってなかったんですけど、やっぱりプロ入ると、当然指導者もいっぱいいます。そういう人たちから助言をいただくと、結局それを鵜呑みにしてしまうといいますか、そこでちょっと自分に合わないものが当然出てきたのかなっていうのもあります。それに対して『自分が芯を持てていなかった』っていうのも今思うと感じるところではあります」

何をやってもうまくいかない。長く苦しい時間が続き、世間の注目も次第に遠のいていきました。

(川口知哉さん)「よく言われましたよ、『何してんねん』と。買い物に行ってても言われますし、ご飯を食べていても言われますし」

結局1軍での登板はわずか9試合、勝ち星を挙げることはできず、プロ7年目で戦力外通告。まだ25歳でした。

(川口知哉さん)「まだできるというよりは、一回もう野球はいいかなって、相当しんどかったので、一回ちょっと離れたいなっていう時期がありました」

指導者として第2の野球人生

引退後は、すぐさまボールを工具に持ち替え、実家の外装関係の仕事に転職。

(川口知哉さん)「例えば営業の仕事だったら、(過去を)掘り返される可能性もあるじゃないですか。その仕事であれば黙々と集中してできるみたいなのがあったので、父親と一緒に仕事をするっていうのを5年ぐらいやりました」

野球から距離を置いて5年、転機が訪れます。女子プロ野球リーグを作るから手伝ってくれないか、と。指導者として第2の野球人生を歩み始めます。

(川口知哉さん)「プロのとき、自分がさまよっているときに、人のいいところを見つけようとして、人の観察をずっとしていたんです。なぜこの人がいいのか、っていうのを自分の目でずっと見て、毎日観察して、それがあったので、この子はこれを教えた方が合うかもしれない、っていうのが何かわかったんです。自分は指導者は向いてるのかもしれないなっていう発想はそこで生まれたといいますか。結局プロで辛かったっていう経験がくつがえった瞬間といいますか」

恩師が声かけ母校の指導者に 「4年ぶり」甲子園出場果たす

手応えをつかみ、踏み出した確かな一歩。しかし、その矢先で女子プロ野球リーグが消滅しました。ふたたび路頭に迷う川口さんに声をかけたのが、かつての恩師・原田英彦監督(63)でした。

(龍谷大平安 原田英彦監督)「極端に言えば、一番頑張ってきた子なんですよ。今までのピッチャーの中で一番走りましたし、一番練習した子だと思う。あの子の学年って、部員が10人しかいなかった、どん底の平安だったんでね。その平安を(現在に)戻してくれたのは絶対彼のおかげです。『川口がいなかったら、今の平安はない』と僕も思ってますので、だから僕の後、魂を預けるのはこの子しかいないと、僕はもうずっと思ってました」

(川口知哉さん)「嬉しいですし、自分もゆくゆくはね、高校野球に恩返しをしたいっていうのもありました。将来、高校野球の指導者をしたいなっていうのはずっと思ってたので、すごいタイミングでした」

こうして去年4月、指導者として再び母校のユニフォームに袖を通し、投手陣を中心にチーム全体を指導しました。迎えた春、チームは4年ぶりとなる甲子園出場を果たしました。

「常に甲子園に出たい、勝てるピッチャーを育てたい」

(龍谷大平安 原田英彦監督)「(川口は)しんどい経験、つらい経験ばっかりだったと思う。そういう経験する子というのは、非常に強い人間になれると思う。ですからいろんな形でね、子どもたちに指導ができるということだと思います」

(川口知哉さん)「高校のときにある程度『上の景色』を見て、プロで『一番下の景色』を見て、人にない経験を自分がしてるなっていうのも思いますし、そうした中で教える立場になったときの、プラスの材料をいただいてたなっていうのは今すごく思います」

川口さんのこの先の夢は。

「常に甲子園に出たい、勝てるピッチャーを育てたい、平安に入ればピッチャーが育つ、みたいなところがあれば、一番いいかなと思うんです」