JR福知山線脱線事故から4月25日で19年。決して忘れてはならない一日です。

妻を亡くした人、今も後遺症が残る人…今年も事故現場に集まった人々

 2005年4月25日、JR福知山線の快速電車がスピードを出しすぎ、カーブを曲がり切れずに脱線。乗客106人と運転士が死亡しました。

 事故が起きた午前9時18分が近づくと、列車は速度を落として現場を通過しました。現在、事故現場は慰霊の場となっています。

 (妻を亡くした西野道晴さん)「この世に残ったものが元気で頑張っていくことが、(妻は)天国で一番喜んでるんじゃないかなと思って頑張っているんです」

 当時列車に乗ってた女性は。

 (増田和代さん)「当時は3両目に。斜めになってギーっといったまま電気も消え、知らない間に吹っ飛んでいったって感じですかね」

 事故で腰の骨を折るなどの重傷。後遺症が残り、いま歩くことがやっとです。

 (増田和代さん)「安心安全になっていないから、風化をしたらだめ。私たちが伝えていくしかない」

19年がたち…現場に足を運べなくなった遺族も

 事故現場に足を運ぶことが叶わなかった遺族がいます。藤崎光子さんは、あの事故で1人娘の道子さんを亡くしました。

 (藤崎光子さん 2008年)「まだ娘が死んだとか、もうこの世にいないという実感がないものですから…」

 毎年、事故のあった時間に欠かさず現場を訪れ、娘に語り掛けてきました。

 大阪で一人暮らしをしていた藤崎さんですが、去年12月からは介護老人施設で生活しています。藤崎さんはこれまで、JR西日本に安全を求める活動や、脱線事故の遺族の活動に積極的に参加してきました。しかし去年、脳梗塞となり、そうした活動もほぼできなくなっています。

 (藤崎光子さん)「左腕・左脚が感覚がなくなっているから…。グーもパーもこれくらいしかできない。せめてお茶碗が持てたらなと思うんですけど、そこまでいきません」

 そして今年の4月25日。施設のベッドで新聞に目を通す藤崎さん。

 (藤崎光子さん)「今年は現場に行けなくて本当に残念です。(娘は)いつも一緒にいるような気持ちではいるんです」

 “娘の道子さんは常にそばにいてくれている”と特別なことはせず、事故の発生時刻を迎えました。

 今年は藤崎さんだけでなく、体調不良などで現場に行けないという遺族もいて、月日の経過を嫌でも感じるといいます。

 (藤崎光子さん)「福知山線事故と言ったら『そんな事故があったんですか』と言われることがあって。19年前から私たち遺族は人生がガラッと変わってしまったという人ばかりです。だからこそこれ以上、私たちのような遺族をつくらないでほしい、そういう思いでおります」