「介護は大変だったけど、いつまでも面倒をみたかった。」壁が崩れた家の中で、大切そうに母親の写真を見せてくれたのは、石川県能登町に住む蔵純男(くら・すみお)さん(68)。母親の蔵やよゐさん(98)が、能登半島地震による避難所生活を続ける中で、体調を悪化させて亡くなりました。石川県は、やよゐさんを災害関連死と認定しました。

「明るくふるまうような感じで、暗いような顔をしたことがなかったです。避難所生活や車中泊でも不満を口にはしなかった。迷惑をかけたくなかったのかな」

純男さんは、高齢の母が慣れない車中泊や避難所での生活に戸惑い、疲弊していく様子を思い出すように話してくれました。

 純男さんは、郵便局で定年まで勤め上げた後、実家に戻りました。母・やよゐさんを介護しながら、2人での生活をおくっていました。

98歳の母 自分でご飯を食べ、元気に身の回りのことをこなす

「母は朝は必ず朝食をとる。お粥さんと鮭の焼いたのと酢の物と漬物と…」母・やよゐさんは、98歳となっても、ご飯は椅子に座って自分で食べ、身の回りのことは一人でやるほど元気でした。気が強く、周りに迷惑をかけまいと生きてきた母親に周囲は、「100歳までは元気に生きるね」と声をかけるほどでした。

 能登半島地震が発生した日、純男さんが帰宅すると、やよゐさんはベッドに戻る途中でした。家の壁は剥がれ落ち、ふすまが倒れ、家はいつ倒壊してもおかしくない状態でした。

98歳 はじめての車中泊に母親は戸惑う

「家が崩れれば下敷きになる」と、純男さんはやよゐさんと、家の外に停めた車で、初めて車中泊で一夜を明かしました。

「母は車中泊の経験がなかったので、戸惑っていました。外をキョロキョロ見たり。たぶんその晩は寝られていないと思う」

 翌日、純男さんは母を姉のいる避難所へ連れて行きました。自身は家の片づけをするため、近くで車中泊を続けましたが、姉からは、やよゐさんが初めての避難所生活に戸惑う様子が伝えられます。

「母は『トイレどこ?』と周りの人に大声で聞いていた、私の名前を呼んで、助けてと言っていたみたいです。私に言えば、自分のやりたいようにさせてくれるんじゃないかと思っていたのでは」(純男さん)

「母は避難所生活をしてから言葉を発しなくなりました」

 自分が近くにいた方がいいのでは、と純男さんは6日から母親と避難所生活をはじめました。しかし慣れない避難所生活で、母の体調は悪化していきました。

「母は避難所生活をしてから言葉を発しなくなりました。普通なら自分で椅子でご飯を食べていたのが、避難所生活では完全に頼りきって、私がご飯を食べさせていた。たぶん、環境が変わったので驚いていたんだと思う。本人にしてみれば、ここがどこかはっきりわかっていなかったのではないか」

 当初は寒く底冷えのする体育館、途中からは暖房のある教室に移りましたが、やよゐさんは、のどが乾燥して咳をするようになりました。「相当、乾燥していたんだろう。渇いた咳をするようになって、だんだん体調も悪くなり…疲れやストレスもあったんだと思う」

「これ(地震)さえなければ…100歳は確実に生きていた」

 1月11日、やよゐさんは朝食のおかゆを、のどに詰まらせて亡くなりました。この日、純男さんはやよゐさんと共に避難所を出て、姉の住む小松市に移ろうとしていた、その矢先の出来事でした。

(蔵純男さん)「これ(地震)さえなければ…。私としては母を看れば100歳は確実に生きていた。こんな震災で…。迷惑をかけたくないと最後は遠慮させたのかもしれない」

 葬儀はできず、火葬を終えて、自宅に戻ったやよゐさん。遺影なき祭壇が、この1か月の混乱を示していました。

地域に残る選択をする理由と背景は

 筆者は1月中旬から下旬にかけて能登半島で取材を行いました。その時期は、長い避難所生活で、災害関連死リスクが高まると言われながらも、2次避難をせず断水が続く地域に残る選択をする被災者がいました。そうした選択の理由や背景を、それぞれの被災者に聞いていきました。

 珠洲市宝立町で出会った80代女性はこう話します。「知らないところに行くとストレスがたまる。避難所は、知っている人同士で話ができるし、何より同じように家が潰れた被災者同士で気持ちもわかる。気持ちは張っているけど、1人になるとストレスになる。」

女性は子供や孫と避難の選択が分かれていました。

「息子と孫は2次避難したけど、私は住み慣れた場所から離れた知らない場所の景色だとノイローゼになるかもしれない。罹災証明などの書類を出さないと仮設住宅も当たらないし、ここだといつでも話ができる」

 珠洲市宝立町に残ることを選んだ80代男性も、「2次避難所に行くと、帰ってきたときに避難所に入るところがなくなっているのではないか。行くところがなくなったらどうしよう、という思いもある。あとは地元の情報が入ってこなくなるのは一番困る。地元がどうなっているのか、一番知りたいことだから」

 ほかの人に話を聞いても、住み慣れた町を離れたくない、情報が入ってこないことが嫌、被災者同士で話ができることが支えになっている、など理由は様々ありました。

現在も一時避難所に居る人は6724人

 しかし、発災から約1か月経った避難所では課題が山積みでした。プライバシーを守るための仕切り板がなく、広い部屋で雑魚寝が続いている場所も多くありました。「災害関連死」を防ぐためにも避難所の環境改善も大きな課題となっています。

避難者(89)「お互いが気を遣って、身体っていうよりも心的というか、精神的な疲れが出てくるんじゃないかな」

避難者(64)「疲れますよ こうやっているのが疲れる」

避難者(89)「大変だけど、どこにも行くところがないし仕方がないです。寝むれないときもあります いろいろ考えると」

 能登半島地震による死者は242人、そのうち災害関連死は15人います。また1か月以上たったいまも、市や町の一時避難所に居る人は6724人います(いずれも2月15日時点)。復興に向けた動きが長期化する現場で、被災者の選択に沿った支援が必要となっています。(MBS報道情報局 記者 柳瀬良太)